しわす

2016年 12月18日

いよいよしわすで、どうにか昨日、作品も創り終えた。よかった〜
箱の用意やら何やらはまだあるけれど、とりあえずひと安心なり。

この度は会場にておむかえする事叶いませんが、お近くにお越しの際は
ぜひご高覧いただけたら幸いです。


12月22日(木)〜25日(日) 青山スパイラルにて 11:00〜20:00 / 入場無料
「 the art fair +plus-ultra 2016 」
ジ・アートフェア +プリュス -ウルトラ 2016

よろしくお願いいたします。




11月末からほぼ毎日着物で過ごしてた。
まだ自分に合った楽な着方に辿り着いていないけれど、うむ。
やっぱりとてもようござんす。

ウールで布地が重いのもあるし、なんせ姿勢がとにかくよくなるもんで
今までとはちがう筋肉の使い方をしているみたいで、毎日全体的に筋肉痛だった。
着ていけば全体的に筋力アップになるかしらん。

懸念していた肩こりも無し。だって姿勢がいいから。
昨日はお洋服で最後の着色をつめていたら若干今日は首肩あたりの雲行きが怪しい。
着物を着て作業をしていると、首の前への傾きの角度がかなり立ち上がって首への負担が減るみたい。
帯で制限されるのもあるけれど、襟元が着崩れないように、衣紋がちゃんと
ぬけたままの状態でいてくれるように自然に姿勢を調節してる自分がいる。


着物を着てみて2日目で「着物ってすごい肉体的なんだ」と想った。
着物の精神がどうのこうのと思っていたけれど。

実際に着てみると精神どうのこうのという前に、動きがかなり制限されて
腰を落とすのもひざからスッと曲げて手を横にのばしてなにかをとるのが一番楽だし、
玄関をあがるにしても大股開いてよいしょとあがるわけにもいかないから
玄関まわりは整理してあがりかまちまで近づいてスィッとあがったら、ひょいっとひざから座って
スッと手をのばして下駄やら草履をきちんと並べる流れができるのだもの。

なにか上のものをとるにしても肩から腕を上げちゃったら襟元も全体の布目も崩れてしまうから
からだはスッとのばしたまま ちょいっと足をあげて手は控えめに伸ばして取るしかないのだもの。


なんというか精神が整ってそうしているというよりは、
からだの動きとして「そう動かざるを得ない」結果、
なんだか美しいなぁと想うような動きが立ち上がってくる。



いかり肩で肩幅が広めの私が着物の衣紋を抜くと(首の後ろのうなじ部分を気持ちひらいて着る事)
どうしてもまっすぐの肩に沿うように布が戻ってきてしまう。衣紋がつまってしまう。
そうならないように肩を後ろの方に少しクッと下げてなで肩になるような姿勢に自然に調節している。

今までついつい肩に力が入るくせがあって、肩の力を抜く事を考えても考えてもできなかったのに
あとちょっと、ここの姿勢どうにかしたいなと思っていたかゆいところに手が届いた感じ。
想わぬ収穫。


まだまだこれから楽な着方を(いざ着物をきる日!というのではなくて毎日の事にしたいから楽〜にね)
模索していきたいところだけれど、まだまだ着慣れてない私には
帯のぐるぐるはどうゆるく締めても少し苦しい。

現時点でおなかまわりの圧迫を避けながら着物を着続けられるかしらと、
これから兵児帯にチャレンジしてみようと想っている。

祖父の兵児帯が一枚手元にある。



大好きだったおじいちゃんの兵児帯。


搬入がすんで一段落したら、はじめてだな。身につけてみよう。

 

 

 

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きもの

2016年 11月19日

制作をせねばならない。

12月の半ば過ぎに青山でまたアートフェアに参加させてもらえることになっている。
なのにまだ制作せずに他のことに夢中になっている。



「着物をきて日々を過ごしたい。」

このことをふと思ってから、図書館で着物の本や雑誌を借りて読んだり眺めたりしていると
あっという間に一日が過ぎてしまう。あぁ、どうしよう。でもまだ見ていたい。



事の発端は一冊の本 「きものは、からだにとてもいい」 著/ 三砂ちづる
ずっと前に他の本を調べていたら関連のものとして表示されて、かなり気になったので
図書館で予約していた。それがようやく私の番になって受けとって読みはじめたが最後、
着物を普段に着るということを実行したくて仕方なくなってしまった。

といっても今までに着物を着た事は本当に片手で数えられるくらいで、自分で着たのは昨年、
本を見ながらがんばって着つけて近所の香道体験に参加した時の一回だけ。
その時は紐という紐や帯を全部きつく締めすぎて、ひぃひぃだったな。




母が着物が好きなので、そのお古をいただいていたり、
嫁入り道具としていくつか仕立ててくれたので、手元にあるにはあるのだけれど、
汚れてしまったらクリーニング屋さんなんて着物は恐れ多くてなかなか着れない。


前々から着物に割烹着だったり、襟元に手ぬぐいなんかはさんで、
そういう感じっていいなぁなんて、なんだか遠くで想っていたのがこの本を読んでぐっと近くなって、
なんだかなんだかあたりまえの普段着にしてしまうくらい着ればいいじゃないかと。

だから普段着にできる木綿やウールの着物をこれからいざ着物リサイクルショップをハシゴして
見つけようと思っている。あるかな、あるかな。お手頃価格でいいのがあるかな。
どうかいいのが見つかりますように。






ずっと前に母から「あんたはなんで着物の事が好きなんかねぇ」と聞かれた時に、
う〜〜ん、、と考え込んでしまって。布がすきだしなぁ、なんだろうなぁ、だって着物いいよねぇ
くらいしか言えず、うまく答えられなかった事があった。

今回本を読んだりお着物の本を眺めたり、映画の「雨あがる」が好きだったり、
そんな事を考えていてなんだかふと、そっか、着物をきるということのぐるりまわりの空気、
凛と 姿勢が整うような、そんな 精神に惹かれるんだろうと想うに至った。


着物をきるということで自ずと変化する仕草や身のこなしの美しさと共に
なにか、こころが すっとまっすぐのびるというか、そのここちよさ。


風呂敷ひとつ クッとしばることで心の姿勢が少し整うようなそんな不思議。




私が通っていた中学高校では、教科書などの教材や体操着を風呂敷に包んで
後ろの棚に収める習慣があった。それが何とも心地よかった。
母とデパートに行って風呂敷を選んだのを今でも覚えてる。風呂敷好きはきっとそこから。

高校で茶道部に入ったもののみんなのおしゃべりがうるさくってすぐやめて、
カルチャーセンターの茶道教室に行ったら今度はおばさまたちのおしゃべりがすごくて
結局やめてしまった。あれも今思えば「精神」の奥深さを求めてたんだろうな。

それでも続けていたらきっと、おしゃべり云々関係なく、
お手前の作法ひとつひとつの動作から、そういった精神は立ち現れてくるんだろうと
今ならそう思う。



そんなこんなを思い返していたら自分の中でうまく答えられなかった「着物がなんだかすきよ」
ということが、なんというか 結局はうまくことばにはできないのだけれど、
すっと今の自分につながるような気がして。

精神云々大げさな事は関係なく、
普段、この日常で着物を着てみたい、着てみようと。
そんな風に想ったのであった。





肌着は今日、さらしで何枚かぬったし、汚れてもおかまいなしの半襟もあまり布でこしらえた。
滋味めな色の帯揚げも母からもらっていた着物のあまり布で使えそうなものができた。よしよし。

あとはなにより、自分で洗濯できるような普段着用の木綿かウールの着物を g e t するのだ。


あと〜、気兼ねなくはけるような色付きの足袋と足袋ソックスと、裾よけ何枚かと、、
柔らかめの衿芯と帯板もあったらいいなぁ。つくれるかなぁ。あと〜、帯締めも帯揚げも〜
あらあらあらあら、あわわわわ。。 どうなることやら。




展示が間近に迫る一ヶ月後は私はどんな風に過ごしてるんだろう。


着物生活を楽しんで、その中からうまれる作品たちと ニコニコしてたらいいな。

 

 

 

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素直に

2016年 10月25日

望んでいることに対して 素直になること。

それってけっこう、簡単なようで難しかったりする。
心の内を素直に表現することって、よーく見るといろんなブレーキがかかってたりするものだ。



とくに、ほんとにほんとに心から望んでいること、
それを認めることから生まれる期待と、叶わなかったらと恐れる不安と。

自分でも気づかないような無意識下で、傷づくのを恐れて考えることを避けて、
望んでいることからも目を避けるようにして何くわぬ顔して日々が過ぎたりなんかする。

ふとしたことから、心の中でそんな複雑なことをしてることに気づいたりする。
あぁ、そっか、私はこんなにも不安で心配だったんだと気づく。
あぁそっか、私はそんなにも泣けてくるくらいそれを望んでいたんだと気づく。


一度感情に気づいて、想うのは、


傷つくのを恐れて祈らないより、傷ついてもいいから素直に祈れる自分でいたいということ。





少しおちついて、ごはんの用意をして、主人は留守だったもんでひとりで晩ご飯。
テレビでもつけるかな、と リモコンをとる。
うちはいつも録画しておいたものをみるので、録画リストをちょんちょんとながしていって、
あぁ、と思う。

こういう少し悲しい気持ちの時にでも、楽しい気持ちの時にでも、
寄りそえるようなそんな作品を、やっぱり そんな作品を作れたらいいなぁと想う。


ただかたちがいいだけではなく、
表情がいいだけではなく、風合いがいいだけでなく、
芸術的なだけでなく、技術が優れているだけでなく、彫りにリズムがあるだけでなく。
作家の表現したいことがただ前面に現れているということだけでもない。

言葉にはできない、素直な気持ちで その心に寄りそえるような、そんな なにかが宿ったもの。





悲しい気持ちはつらいけれど、こういう気持ちを抱いてたことを思い出させてくれる。

そしてなぜだか、気づかないふりをして健在意識上では楽しく過ごしていた日々よりも
すがすがしい心のひろがりが生まれるような気がした。




そしてあとひとつ、今回の収穫。
不安や心配してしまう心は仕方ないけれど、人間だもん。でも、

できうるならば 信頼して、応援したい。


それを力に変えていきたい。


素直に祈って、生きて。信じて信頼して 応援して、ひろがりを感じて息ができるように。






生きていくというのは、ほんとにすごい。おもしろいな。


本当に、今日もありがとうございます、だ。

 

 

 

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からだ

2016年 10月19日

なんともなんとも、いやはや あっという間に一ヶ月経っていなっしゃる。


調べたいことや読みたい本があとからあとからわいてきて、ずーっと本の虫だった。
なんというぜいたく。図書館ばんざい! ありがとう。



そしてまた、風邪をひく。

もうよく分からないからありがとうと言っておこう。風邪さん、ありがとう。デトックス。


前々回風邪をひいた時に買った本がある。
「風邪とごはん / ひく前ひいたひいた後」著 渡辺有子

そのレシピの中で今回作ってみたもののひとつ、
「玄米茶粥」(玄米を番茶、こんぶ、梅干し入れて、コトコト煮込んだおかゆさん)
いやぁー。あまりの滋味深さにうっとり。おいしいなぁ。おいしいです。

載ってるレシピを見ているだけで体をいたわるということを学べそうな、すきな本です。





ずーっと前にブックマークしたままだった、ほぼ日刊イトイ新聞さんの
「手かげんしないしょうがシロップ GOLD」のレシピ。ちゃんと土鍋で作ってみる。
冷蔵庫にいつも常備の品に決定いたしました。うれしいおいしい。

結構もつかなぁと思ってたら、どんどんなくなってしまう。
ホットミルクにこのしょうがシロップを入れて飲むのがすき。幸せだなぁ。

漉して、残ったしょうがチップスはフードプロセッサーで細かくして瓶詰め。
パンにのせて食べる。バターに合うんだもん。





最近圧力鍋の使い方を知って、これも常備の品にしたかった煮豆を作る。

なんと、あっという間にできるではないか。おそろしや文明の機器、ありがとう。
これなら私でも煮豆を常備できそうです。黒豆黒豆。花豆花豆。





体にいいなぁと思うものを、むりせず自然に取り入れられたら とても幸せだな。


体のことや心のことに、時間をかけて向き合って とりくんで。
ようやく最近になって、頭に知識として詰め込んできたものが 消化されて吸収されて。
からだそのもので少しずつ感じられるようになってきたかなって思う。

からだのリズムが整うこと、からだをいたわること、からだを応援すること。



女性であることも。


おおらかな女性性というものが からだの中で少しずつうれしそうにしてくれてるような気がして、
なんだか最近、それがとてもうれしい。あたたかい。大切にしたい。



女性であることをよろこんで、男性もほめたたえて。

歌って踊って。よろこんで。




ゆるむほぐれる あたたまる。 少しでもそれが訪れたら、歓迎して 味わおう。





本の虫、知識欲全開でかきあつめたもののおかげで、ゆるむことを味わおうと想えた。
ゆるまなきゃ とか ゆるめよう〜でもなく、ゆるんだ時に素直によろこべること。

ふむ、なんにせよ 心の余裕も必要だな。


からだ、こころ 命まるごと。





自然のひとつであることも、頭を使って前に進んできたことも。
なんだか、どちらもすばらしいのだ。

それしかなくてそれをしていただけのことと、
それもこれもあれもあるなかで 意識してそれをすることとはちがうから。


私たちの歩みはちゃんとひとつにつながっていて、未来につながる今を一歩一歩歩いてるんだろうな。






さてさて、ちょっと 横になろう。

 

 

 

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ヴァイオリニスト

2016年 9月20日

一週間ほど前に、ヴァイオリンのコンサートに行った。


世界最高齢の現役ヴァイオリニストの イヴリー・ギトリス  御年94歳。




クラシックになにも詳しくもない私がイヴリーを知ったのは、実家にあった DVD
「アート・ オブ・ヴァイオリン」
20世紀の偉大なヴァイオリニストたちを集めたDVDで、そのなかで演奏者としても、
そしてコメンテーターとしても出演しているのを見てから。

なによりその人柄や話し方でイヴリーという人がなんだか好きだった。
話しながら、話すよりも先にヴァイオリンを手にとって弾こうとする姿や、気さくな人柄、
若い時の毅然とした演奏とのギャップなんかも含めて。
その「人」がとてもすきだった。

それから何枚か、何人かのヴァイオリニストのCDを聞いてみたけれど、
それでもやっぱりギトリスだった。



私はヴァイオリンを聴くとその高音部が精神のすごく敏感なところにキーーンと響きすぎて
なんだか危ないところに精神ごと持ってかれそうになってしまうので、なかなか長い時間聴けない。

でもイヴリーのは自然に聴いていられる。部屋に響かせていられる。
なんというか、音がやわらかくってやさしい。


技法やその世界のいろいろを知らないから、私は勝手にその人となりと音を重ねて
「イヴリー・ギトリス」という人がすきだった。





そのイヴリーが日本公演するっていうのをひょんなことから知って、
無事にチケットもとれて(よかった!)、イヴリーに会いにいったのが、
9月14日(水)紀尾井ホールにて。

実家の両親も呼んで、主人と4人で。



本当に本当に、行けてよかった。


アンコールに入った時からもう涙がとまらなくなってしまった。

うまくいえないけれど イヴリー・ギトリスという人がこの世界にいてくれてよかったというような
感謝の気持ちがとまらなくって ずーっと拍手をしていたかった。

ピアニストの方の腕につかまって、アンコールの拍手に何度も応えてでてきてくれる。
94歳になっても未だ現役でヴァイオリンを弾き続けて、ヴァイオリンを愛して、人を愛して。
イヴリーギトリスという人に会えて、その音を聴けて、同じ空間にいることができて

本当によかった。





どうかお元気でいらしてください。日本にきてくれて ありがとう。



イヴリーギトリス

 

 

 

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自然治癒力

2016年 9月9日

びっくり。


風邪ひいてからもう3週間くらいになるではないか。まだひいてる。

お盆に広島に戻って、帰り際になにかしらもらって帰ってたみたい。
広島の家族もおんなじような症状。そこにいた親戚も東京に戻っておんなじような症状。
私は主人にうつして、おんなじような症状ですごしている。

ひとり風邪ひいたら家族みんながいつも風邪ひく親戚がいて、なにをやってるんだかとか思ってたけど。
自分がなっちゃったね。すみません。手洗いとうがい、しっかりします。
そしてなんだか、改めて こんなことから主人と自分の事を「家族なんだなぁ」なんて想ったり。


でも今回は反省。風邪をひいたら家でもなんでもマスクして、家族にはうつさないようにする、
できうる限り〜。 夏にマスク 暑すぎる。。



そして生まれてはじめての体験。
風邪をひいて、まったく薬を飲まずに自然治癒力で回復に向かわせてる事。

しっかり休んで、消化のいいものや体を温めてくれるものを食べて、
笑顔もいいらしいから、なるべく気楽にのんびりすごして。ビタミンCに水分補給。
風邪をひいたときリストなんかつくって手帖にはさんだりして。

喉の痛みから咳が出てきて熱が出て、しばらく寝込んで、
熱が下がってたんが絡んだ咳が出てきて、ま、そこからまだそれがつづいてるけど。長いね。でも、
そんな経過がなんというか、うれしかったりした。

自分の体を信頼して、症状が少しずつ変わっていって、体が一生懸命働いてくれている事。
主人も風邪ひいちゃったから、二人のためにあんまりそこまで得意でもない料理を
消化の良さや栄養を考えてつくってみたり、汗をかいたらこまめに着替えたり。

そんな事をこちらが働きかけながら、体さんがんばれ〜っていうのが、とてもうれしい時間だった。



ちょっとした事、体の事からも、自分への肯定感って育む事ができるんだって想った。
時間をかけてじんわり体の奥の方からあたたかくなるような肯定感を、
寝込んでいるなか なんだかふと感じる瞬間があった。


自然治癒力って すごいな。





でも何かこうやって書いてて、3週間経ってる事に気づいてしまった。
自然治癒力も大事だけれど、長引く不調はきちんと一度 医学に頼るのも大事と心得る。


あしたちゃんと診てもらいにいこう。






そして風邪っぴきの中、はじめての木彫ジュエリーに挑戦したのであった。

それがなんだかまたまたうれしくて楽しいのであった。
ロゴなんか考えたり、タグをかわいくつけたり、そんな細かいこともなんかうれしい。

搬入の時も小さなピアスを並べたりしてそれが彫刻並べるより妙に緊張したり、
帰ってからもなんだかほくほくニヤニヤしてしまったり。


彫刻ともうひとつなにか、彫刻よりも少し手軽にできるなにかがないかなと考えていたけれど、
小さくてやさしいジュエリー、なんだかうれしい。ライフワークにしようかな。




いつかネットショップを開きたいのだ。このHPにリンク貼っつけて。いつかといっても今年か来年。


参加させてもらえる展示がいくつかあるので、その制作の合間に できるかな。







自分にできうることで、できる事の幅を広げて、
自分が大切にしていきたいこともしっかりそのための空間をのけておいてあげて、

やわらかくひろがっていくような肯定感を少しずつ感じながら
向き合うべきことには向き合って、壁を越えた時の うれしくてホッとするあの安心と一緒に


これからも少しずつ 成長していきたい。



おたふくネックレス

 

 

 

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残 暑

2016年 8月19日

残暑 。



なかなか寝るときの温度調節がうまくいかなくて
この夏、2回目の風邪をひいてしまった、、 不覚!

風邪もウィルスだかなんだか悪い物が体に入っちゃって、それを外に出そうと
体ががんばって正しく働いてくれている証拠だから、たまにはいいのかね、と思ってもやっぱり。

つらいものは、つらい。


しっかり水分とって、いのち全体洗うような気持ちでいたい。




最近、一日の中でほんの瞬間だけどイメージしてるのが、エネルギーの色。
私はあまり詳しくないけれど、いわゆるチャクラと言われているものの色。

虹色のようなものを調べていたら関連する画像の中に出てきて、なんだかしっくりきた。


気功だったり呼吸法だったり、瞑想だったり、冷えとりだったり。
どれも思い出した時に少し整える程度にやるくらいだけど、やっているから。

東洋の考え方の頭寒足熱とか、実践してみるとほんとにずいぶん 楽になったから。



その頭寒足熱の色のイメージにチャクラの色がとても近くて、


なんだかなんだか うまくできてるなぁ〜ふしぎだなぁ〜と、想う日々なので あります。




いのち全体のバランスを調えて、改めて今のこの命の健やかさを 大切にしよう。



チャクラ

 

 

 

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2016年 7月28日

蝉が鳴きはじめて いよいよ夏だ。


「あ、今年も蝉が鳴きはじめたな」と思うと同時に想うのは、生まれ育った 広島。



すかーっと晴れ渡った真っ青な空と、セミの声だけが響く 不思議な静寂感。

小学校の時、7月に入ると土曜日の朝礼のたびに歌った原爆の歌、「青い空は」。
土ぼこりの舞う中で日射しを浴びて汗をかきながらこの歌を歌って、少し空を仰ぐあの感覚。

千羽鶴の鮮やかな色の重なり。

8月6日、毎年黙祷をするまでのあの空気。心の中の 大切な空間。



「あぁ、今年も8月がくるんだなぁ」って、蝉の声を聞くと いつも想う。





私が高校生の時、路面電車に乗ると 原爆で片方が焼かれて
ケロイドになって耳が無い方に出会った事がある。夏の午後だった。


私が通っていた中学、高校では一年に一回、平和の日があった。
その日までにひとり何枚か鶴を折る事は通年行事で、授業を聞かずに鶴を折ったりしてた。
平和の日に皆で平和記念館に行き、原爆体験者の方のお話を聞いたり、
原爆の詩を読んだり、絵や写真を見たり、歌を歌ったりする。

覚えているのが、会場の皆で 立ち上がって
沖縄の戦争の歌、「さとうきび畑」を 11番全部とおして歌って
途中から 涙がとまらなくなったこと。



平和 ということ







広島で生まれ育ったからこそ抱く事のできたこの感覚を 大切にしていこう。


今年も 夏がくる。

 

 

 

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絵 本

2016年 7月11日

そういえば、昨年の春先に 絵本を書いてみたことがあった。


あの時期、絵本や 柔らかいタッチの絵画などに立て続けにふれる機会があり。

やさしい空気を纏った絵画やイラストをしっかり見てみて、あぁ とてもいいなぁと
その時、しみじみ染み入るように感じて。

「そうだ、絵本を書いてみよう。。!」と、なんだか閃いてしまったのであった。


そんな風にして、自分なりにがんばって 一冊、一生懸命描いてみたものがあったんだった。
(残念ながら公募には落ちてしまって、本にはならなかったけれど)



絵本を作ってみたのも本当にいい体験になった。
いざ描いてみようと思ったら、紙の質感や、絵の構図、文字の配置、フォント。物語しかり。
ページをめくる少しの間を置いて、めくるときの風も肌に感じながら、次に目に飛び込んでくるもの。
ひとつひとつ、真っ白な紙にいちから立ち上げていこうとすると、ほんとにとっても難しかった。

いろんな絵本をたくさん見て読んでみて、絵本ってすごく 体で感じる物なんだって事が分かった。
もちろん何歳児用って子どもの成長と共にまた 内容や届け方も変わってくるだろうし。
それも改めてすごいなぁと思った。

決まったページ数の中で、ひとつ別の世界に旅するような、素敵な世界があった。




そういえば絵本も少しずつ集めていきたいなぁって思ってたんだっけな。


そんなこんなでまったくのひらめきから 描いてみた絵本。
その存在を久々に思い出したから、せっかくなので
もうこの、自由気ままなこの場所にのせてみよう。

この絵たちも、せっかくだから見てもらいたいもの。


よろしければ 読んでみてください。








 「 ひ と つ 」   作 ひらやま さよ



絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本

絵本










 

 

 

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おさいほう

2016年 6月26日

お裁縫三昧だった。この一ヶ月、今日まで。 おわり!お裁縫おわり!



なんだかくったくたになるまでやってしまった。。
朝から晩まで、それこそ寝食を忘れて、ず〜っとミシンの前。おつかれさま、私。


なぜにそんなにとめられなかったの。



もともと、彫刻の制作の前に必ずほんの少しのお裁縫から 創るスイッチが入っていくので。

今まではお裁縫と言っても、ズボンのボタンをずらしたり、穴空きにつぎはぎしたり。
今もっているものをちょっと加工したり、着物のあまり布で巾着袋を作ったり、それくらい。

個展の反動かしらと思いながらも。
やろうと思っていたことをやりきってしまいたくて個展の時より没頭。
というより、お仕事としての必要をかねていなかったからこその無我夢中かしら。



はじめはこれ作りたいなあれもあったらいいなで、楽しんではじめた小物作り。
気づけば しめて30点以上。すでに疲労。

楽でハードユーズできる部屋着(スーパーまで可)が欲しくて思いついていたもんぺ。
調べたら福岡にある「うなぎの寝床」さんというお店を発見。
久留米絣の着物の反物でつくれる、現代風もんぺというものを取り扱っていらして、その型紙を入手。
はじめての ちゃんと型紙を使ったお洋服作り。
すごくいい。リネン100%で作った現代風もんぺ、作ったその日から毎日これ。すごくいい。

ファスナー無しで腰はゴムか紐でよしとなると、一度作り方が分かったら次々作ってしまいたくなり、
しめて8本。型紙を使ったのは最初の2本。
あとは持っているズボンを布にあててその場でザッと線を引いて。
主人のと私の、4本ずつ。主人も気に入ってくれて、すべてのズボンをハードユーズ。
うれしい。それがうれしい。

私はプラス、彫刻制作用のエプロンひとつ。
今まで使っていたエプロンと同じかたちに。紐を細くしてすこしおしゃれに。



そこでおわりにすれば良かったものの、少し足りなかった金具を買いにいく。
そこで革をチェックしてしまい購入。
もんぺの生地を買った時に、帆布の生地も何枚か買っておいたのであった。

帆布と革を合わせた鞄作りがはじまってしまう。
ざっくりしたトートバッグや、主人のショルダーバッグ大小、ウエストポーチなど しめて11点。
主人がまた すでに普段使いにしている。それがうれしい。はぁ〜、つくってよかった。。





ただ、なんだかなんだかすごく長かった〜。
もっと楽しくやったらいいのに、取り憑かれたように必死にやってしまった。

彫刻やらないと、と思いながら続けていたのも、
パソコンがあったり洗濯物を干したりする日常生活の場である部屋でしていたのも、
けじめなくずっとやってしまって、家事がおろそかになるくらい余裕がなかったのも。

お裁縫をするということに関しての距離のとり方やバランスをうまくとれてないままだった。夢中で。


今までほんの少しの趣味だったお裁縫をくたくたになるまでやってみて、いろいろ勉強になったな。
ちょっとしたポーチひとつとってみても、自分でつくってみたら このかたちだと入れづらいんだとか、
これなら手作り感でおしゃれに見えるのに、こっちだと手作りっぽくて野暮ったい印象になるなとか。

今まであまり考えずに使ったりしていた小物やズボン、鞄もきっと他のものも、
本当に あぁ、すごいんだと思った。
何個も何個も作って、何回も失敗したり工夫したりして、人の手に届くものになってるんだなと思った。


今回作ったものをたくさんたくさん使っていこう。それが一番。





この一ヶ月こうして過ごして またひとつ感じたこと。
無我夢中って言うけれど、私の場合は有我夢中だったな、今回の場合は。
頭の中のおしゃべりがとまらないまま、自分のやりたいをつきとおして疲れきって感謝も忘れて。

昨日、ようやくすべて片付けて掃除機かけてアトリエも水ぶきして 彫刻に入ろう!と思えてから、
用事があって自転車に乗って外に出たら、久々にほほをなでる風に気づいた。
あ、私 ずっと自分で一杯になってたんだって思った。
そこでなんかが ほーっとゆるんでくれた感じがした。
なんだかぐったり疲れてしまったのもきっとそうだったからかなと思った。


彫刻はやりはじめて15年。
続けるためにどうしたらいいのか 心と体のバランスの中で彫刻との関係を育ててきてる。途上だけれど。
お裁縫はそれができないままつっぱしってしまった。

そっか、そういえば彫刻とだってそうだったもんな。
このやり方だと続けられないって心身ともに限界を感じてそれこそ必死で変える努力をしてきた。

やりたいからといって、やらなければならないからといって、
周りが見えなくなるくらい自分すら追いつめるように制作してしまったら
なんだか つらいものになってしまう。

もちろん それだからこそ辿り着ける表現も、きっとあるのだけれど。



おさいほう。せっかくお洋服まで作れるようになったんだ。

裁縫との関係も今度からはちゃんと育てていこう。






なんだかんだいって私は、心のあり方を整えないと、いまだに 自分がつらいんだ。それがわかった。

ほんの少し例えば悲しい気持ちが ふとうまれたとして、それに気づけないままほっといて、
ほっといてもやっぱりどこかで悲しさに耐えてるから、普段よりもがんばっていて、
そこから少しずつ感情のずれができてくる。

そんな心に気づけるように できればゆっくりした時間をたとえ一日10分でもいいから、
意識的にとることは本当に大事だなって思った。

深呼吸する時間でも、お風呂にちゃんとつかるでも、テレビとかつけないでお茶を入れて飲むでもいい。
ちゃんとしよう。

心を整えること、体を整えること、私は ちゃんとできるようになりたい。

わたし、よろしくおねがいします。





あれは7年か8年前、私はどんな作品をつくりたいのか考えた時、思いついたのがみんなお坊さんだった。
白隠、仙厓、良寛、円空。その時想った4人。みんなお坊さん。
出家するのか私って思った。しなかったけど。
この日々こそが修行の場なんだってことを、もっと前 大学院の時に深く想ったことがあった。

でもこのお裁縫三昧の中、ほんの少し悲しいことを押さえ込んでいた中、
いつも笑顔でなんかいられないって思ったこと。それを少し 考えていきたい。

人間くさくてどうしようもなくて、それでもやっぱり、心を整えていきたいと思うこと。



彫刻をしないと生きていけないという精神状態から、
まずは自分が自分として在れたうえで彫刻をしたいと願ってきたけれど。
お裁縫をしながら彫刻のことを想う中で、そんな考え自体が、なんだかおごりのように感じた。



どこからどこまで分けられるものでもなく、ほほに 風を感じてほほえむことができるような。
そんな心の状態に、いつも自分を整えながら、

家事もお裁縫も彫刻も 次のステップにつなげていきたい。 明日からアトリエに入ろう。



higasiyosino

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刀鍛冶

2016年 6月1日

先日、奈良の東吉野で 刀鍛冶の現場を拝見させていただいた。


いのちが沸き立つようだった。
まばたきできなかった。

すべての所作、姿勢が美しかった。




師匠とお弟子さんとの信頼関係も、火と人との信頼関係も、
この世界のこの空間の中で調和して 満ちて、昇華していく時、すばらしい刀ができるのかな。

見学させていただいたあと、高揚した少し放心状態の中で そんな事を想った。


そして、みなさんの人柄の良さ。
あぁ、とってもとってもいいなと思った。すばらしいなと思った。
やっぱり、だからいい刀ができるんだ。

「ていねいに生きる」

そう書かれた額が飾ってあった。すごくうれしかった。



真剣で、それでいてお茶目で 品があって、厳しくてやさしい。


とてもすばらしくって、うれしい時間だった。




すばらしい機会を、本当にありがとうございます。



higasiyosino

higasiyosino

 

 

 

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春の菊

2016年 5月13日

「幸せになる覚悟をすること」



そんなことを、もう何年だろう 4年か5年前になにかで読んで。
心に響いたというより、グサッと刺さるような感じだったな。


幸せになる覚悟があるか。

そこに向き合うときっと、自分自身に真っ正面から向き合うことになるだろうと。

弱さに逃げない。卑屈に逃げない。虚勢を張らない。
悲劇のヒロインぶって悲しみに酔わない。なにかに依って自分から目をそらさない。


どんなに惨めで無様な自分が顔を見せようと、何度でも 丁寧に向き合って

ありたい方へと修正していくこと。




それは自分を否定することではなく、今の自分を丸ごといったん肯定してあげた上で
今ここから変えていけるところをひとつひとつ 変えていくことができるということ。

それって実は、自分の幅がどんどん広がっていくような とてもとてもうれしいこと。




どんなことだってはじめは大変だ、すごく。でもいつのまにか できるようになってる自分に気づく。


まるで 自転車をこげてることとおんなじように。

なにも考えないままにひょいっと。
気持ちのいい風を感じたり 鼻歌なんか歌う日だってくる、きっと。






人それぞれ、その人にとって 幸せとはなんなのか。
どんな状態であれば幸せなのか。そしてそれが本当に幸せなのか、一時的な快楽ではなく。

快楽を否とするつもりはなくって、それこそ分けられるものでもないし。
なにがどうなってるんだというほどに、果てしなく広大な命のバランスの中にそれらは在るから。




ただ、なんというか やっぱり



どうか幸せであって欲しいと祈るのは、私たちの この命の真ん中にあるものなんじゃないかな。




自分から自分の命へ。大切な人たちの命へ。生きとし生けるものの 命へと。







どうか幸せでありますようにと、祈れるように。


まず 自分が幸せになる覚悟をすること。

自分が笑顔でいられる余裕を持ちえるならば、となりの人の表情の変化にだってきっと 気づけるから。
そんな気持ちが少しずつひろがっていけば、今よりたくさんの笑顔がきっと この世界にあふれるだろう。

自然も生き物も人も、同じ命として この世界にあって。

いろいろ話し合って、最後は「ありがとう」って言い合えるような そんな関係を築けていけたら。




みんなそれぞれの時間の中で、それぞれの場所で 一生懸命生きてるのは確かなんだ。


その命のまん中はおんなじところにつながってるんじゃないかな。どんな命も。

どんなに心がすれてたって、ふと涙が流れることってきっとあって。
たったそんなことひとつとったって、みんな幸せがなにか知ってるんだ、感じてる。

言葉にできないし、幸せということばでだって とどかない。


でも涙が知ってる。笑顔が知ってる。 体と心が、命が分かってる。きっと。





命のちからは 自分が思ってるよりはるかにすごいから。そして、その命だって自分なんだもの。

信じて、時にちからふりしぼって前に進んで、少し休んで 深呼吸して。


気づけば前よりやわらかでやさしい目をして、しっかりした みずみずしい命があるだろうって。






そないなことをおてんとさんが言ってやしませんか。 はい!


もう、長々と書いちゃってなにが言いたいんだかよくわからなくなりましたとさっ  ちゃんちゃん。








お庭の春菊が育ちに育ってお花を咲かせました。
春に菊のようなお花を咲かせます。春菊です。

花言葉は「 豊富 / 私を信じてください 」であります。




ちなみに以前お花を咲かせたブロッコリーさんは「 小さな幸せ 」とおっしゃるそうです。

そして実をつけ種となり めぐりめぐってゆくのです。




あなたとなり、わたしとなり、いのちのわっかを生きるのです。



syunngiku


 

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個展 おひらき

2016年 5月1日

topimage


昨日、無事に個展のおひらきを迎えることができました。


お越しいただいた皆さま、お声がけいただいた皆さま、
支えてくださった皆さまに、心より 感謝申し上げます。

本当にありがとうございました。



とても充実した すばらしい時間を過ごさせていただきました。

こんなにもたくさんの方にお会いできて。
はじめての方も、いつも応援してくださる方も、本当に久々にあった友人も。


じっと見てくださる時間を共有できたり、
作品を見ていただきながら たくさんお話しさせていただいたり。

こんな時間は人生でもはじめてで、
自分の足元をあたたかく照らしてくれるような とても大切な時間でした。


改めて、自分の作品のことを考えたり 向き合えるきっかけを新たにいただくことができました。



これからがまた 楽しみです。







在りたい方へ。

どうか 精進していけるよう、これからも手を動かしていきたいと思っています。



みなさま、今後とも よろしくお願いいたします。

 

 

 

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新 緑

2016年 4月25日

新緑がきれい。



この時期になると思い出すのが、通っていた大学がある 八王子の山。

小さな駅から学校のバスに乗ってほんの5分で大学につく。
その途中、バスから望む山々の新緑の眩しさが、あまりに突然に体のなかに入ってきて。

油断していたところ 命の萌えるような美しさで目が覚めるような そんな記憶。


この時期になると、その時の感動をいつも思い出す。



そして、これは大学院の時。
自転車を必死にこいで坂道をあがりきったところに見えた
アスファルトの中から芽吹いていた 小さな命。

そのときが、「ここにある命」にはじめて気づけた瞬間だった。



どんな命のなかにもあの命の高鳴りがあるんだってことを知る。






生きる姿勢として あるがままあるようにあけわたし、大きな巡りにゆだねながらも

人として、悲しみや苦しみも きっと、生きるちからに変えていけますように。




何度でも また、この空を仰げるように 命が命として おおらかに呼吸できますように。

 

 

 

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春の空

2016年 4月18日

個展の一週目、たくさんの方々がお越しくださいました。

みなさま、ほんとうに ありがとうございます。


二週目は21日(木)〜24日(日)12:00-19:00 (会期は30日までです)
お時間ございましたら なにとぞよろしくお願いいたします。



たくさんの人とお話しさせていただいて。
自分では自然に あたりまえにしていたことも改めて、「なぜ?」という問いが生まれて。
そこから自分でも なるほどぉ〜というたくさんの発見がありました。

そして、未だ言葉にもできず 感覚でもうまく表せない質感を感じています。

またここから次の作品が動き出している予感があって ほんとうにほんとうにありがたいです。


会期いっぱい、この作品たち、いらしてきてくれる方達の声に耳を澄ませて、
たくさんたくさん 学んでいこう。






日本のあちこちで、世界のあちこちで 大変な想いをしている人たちが たくさんいる。


きっと どうか、 悲しみや苦しみが 少しでも和らぐように、時がすすんでいきますように。

苦しんでいる方々の悩みが少しでもほぐれ、ゆっくりと 息ができますように。

 

 

 

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個展がはじまる

2016年 4月14日

なんということでしょう。個展がはじまります。



そして、なんということでしょう。 素敵空間。自分で言っちゃう。


空間のなかの配置や照明もすべて、企画してくださった方にほとんどおまかせ。
わたしはただ、「ぉお〜っ!」と感動して拍手していただけ。すごいなぁ。すごいなぁ。

DMもまた、その方の知人が作ってくださって。
もう私は「ぉお〜っ!」とうっとりして拍手してしまうばかり。すごいなぁ。

ドローイングの額装も。搬入に向かう際に受けとりにいって。 はぁ〜、うっとり。



自分でもなんとなくのイメージはあるのだけれど。
それをしようとしてもあくまでその想像のなかでしか動かせなくって。

目の前で自分では考えも想像もできない配置や構図が立ち上がってくるのは、もう
「ぉお〜っ!」といって夢中で拍手してしまうばかり。もうもう、ありがたい。 もうもう、私は 牛か。



なんというか、だから私は 彫刻をするのかなぁ。

彫刻は、なんとなくのイメージがあって彫り進めていっても、わぁ、こんな形だったんだって思うんだ。
自分が彫ってるんだけど、それは本当に新鮮なんだ。いつもいつも。

他の方がしてくださって、ただただ感動して拍手してしまうことが、手の中の作品のなかで起こってくる。


毎日生きていって、自分は毎日変わっていく。
その自分が手を動かして、作品のなかから現れてきてくれる新しい形に、
なにより、私が一番 会いたいんだ。 見てみたい。

どんな作品がいらしてきてくれるのか、これからも ずっと、会いたい。






自分だけではとうてい実現することのできない個展がはじまります。

みなさま、お時間ございましたら なにとぞよろしくおねがいいたします。

 

 

 

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やわらかに

2016年 4月11日

自分を空しくして、学ぶ姿勢をもつこと。



つい先日、たまたまテレビで養老孟司さんが出ている番組を見て。
学問について、学ぶということについて大切なのは という問いに対して、
「己を空しくして、学ぶということでしょう」とおっしゃっていた。

この言葉はいつも覚えていたいなと思う。


空虚としての空しいではなく。
我執なく、先入観なくひらけた空間を 心の中にもちえているか。


自分が学ぶ立場だとしてもつい知ったふりをしてしまう。
自分が教える立場だとしても、それでも 本当にどれだけのことを知ってるだろうか。

自分のなかに立ち上がる感情に気づいてよくよく見たならば、自分の考えでパンパンになっていて
せっかくの学ぶチャンスをどれだけ見逃してることだろう。


自分に問えば。 今までも そして今も、どれだけ耳をふさいでしまっているんだろう。



自分の考えや意見を持つこと、芯があること、それがとても大切であるのと同じくらい、
自分を空しくして、他を認めて たくさんの幅やひろがりをもてるように。




日々のなかで感じることからも、変化のなかで想うことからも、


心を柔軟にして 学んでいくことができますように。

 

 

 

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花 束

2016年 4月2日

topimage

このあいだ 久々に主人と二人でお庭にでて、お水をあげたり土をいじったり。



ずっと植え忘れていたアボカドの種もようやく植えた。
こんな時期だけど、でてくれるかな、どうかな。日本産のいいやつなのだ。


そして、のんびり育ったブロッコリーの収穫も。
こんなにしっかりお花が咲いたのはじめてみた。かわいいかわいい。

主人から収穫したブロッコリーを、「はい」って手渡されたら、
なんだか花束を渡された気がして、素敵な気持ちになった。うれしいうれしい。



個展の案内DMを出させていただいた方から、メールや、お手紙、おハガキが届いて。
とてもうれしくって、あたたかくなって。がんばろうって思うのだ。



自然のなかで。 人とつながって。 指先で触れる質感にワクワクして。
都会の活き活きした活気にエネルギーをもらって。

自分の元に知らず知らず届けられる たくさんの花束に気づいて 自分の糧にできたら。





お花ごと茹でていただいたブロッコリーは とってもとってもほほえましくって おいしいのだ。

 

 

 

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個展にむけて

2016年 3月23日

制作をしている。私にとっては けっこうひたすら制作している。


といっても一日やっても5時間から7時間くらい。
大事なのは彫り続けられるペースをつかむこと。
これくらいのペースでもって、ちゃんと睡眠時間もとって、しっかりからだのケアをすれば、、
、、きっと大丈夫!


お知らせです!



topimage

2016年4月15日(金) - 30日(土)(※ 月 ~ 水曜日 休廊)

彫刻の個展をします!

3331Arts Chiyoda 205a
ex-chamber museum にて

詳細は、n e w s のページでご覧いただけます。



そして会期まであと一ヶ月をきった時点から、チェインソーが必要な大きさのものをはじめるという。。
間に合うかどうかはおいといて、チャレンジしたかったんだもん。
そしてやるならやるで、間に合うようにやるしかないではないか。

ノミでこんこんこんこん彫るような大きさ( だってチェインソー!!)は大学院ぶりで。
いやー、やっぱり楽しいんだ これが。

全身を動かすから小さいのを彫り続けるときよりからだの調子もいいしなぁ。

これは意外なのだ。からだに負荷が少ないように小さな大きさの作品をつくっていたのに。。
きっと仕上げの平刀の繰り返しに入ると同じ場所に負荷が集中してきつくなるのだろうと思われる。
なぜなら昨日その作業に入ったら、今日の朝見事にこたえてるもの。

正直なからださん。一緒にがんばってください。

筋肉痛はすごいけれど、凝り固まるコリよりも、なんというかハードボイルドな感じで。
この調子で首まわりの筋肉つけよう!ってことで、これだけは続いてる 日課の「みんなの体操」のあとに
首にほどよく負荷をかけるコースを考えて取り入れてみたり。なにをやってるんだか。

でもこんなことがとても楽しくて、こんなことに とても本気。


このまま丈夫な肩まわりを手に入れられますように!



そしてなにより、納得できるまで彫りすすめて、みなさまに見てもらえますように!


応援してくれる方々に感謝です。あと少し、がんばろう〜!

 

 

 

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美しさが見えてくる場所

2016年 2月4日

今日は久々に制作もせず おうちでゆっくり



今彫っている作品は、何やらいづこからか風が吹いているようで。
風になびいているかたちを彫りながら。

はて、そういえば。 なにやら「いい風をはらんだ表現だなぁ」とほれぼれした何かがあったなと、
思い出したのが 『竹光侍(たけみつざむらい)』


『竹光侍』 原作:永福一成 / 漫画:松本大洋
侍が主人公の時代劇漫画、全8巻。
主人が持っていたものを拝借して、読んで とても好きなもの。

その中のひとコマが妙に心に残っていて思い出したのだった。

改めて読み返したらやっぱり好きで、いいなぁ。
なんだか人物が活き活きしている。

過激な表現もたくさんあるのだけれど、空気の流れ方や「間」がとてもすき。
人の日常やら、情やら、業やらも巻き込んで、
ほんの少しかいま見える想いを含んだ表情や、言葉や 「間」が、琴線のある場所までおりてくる。
なんだかこの『竹光侍』が気になっている状態が続いてる。



絵があって ことばがあって。ことばがあって 絵があって。

そうして 絵にもことばにもならない余韻が 心の中にひろがっていく。


伝えたかったり 表現したいものは、どうしたって届かないまんなかにあって
私たちはいろんな表現をとおして、その片鱗に ようやっと触れられるような
そんな 気の遠くなるような作業をするんだろう


この漫画の、言葉や絵の先にある なにか  時の流れやひろがりや  とてもすきだな。






日々を過ごしていくこと。

ことばがすきだ。かたちがすきだ。色を色のまま気づけた時はハッとする美しさだし
大きな空間がわぁっとひろがる時はわくわくする。


だいたいは私の頭は雑念でいっぱいで、その美しさを見逃してばっかりだけれど。


一日の中でほんの少しでも、からだの感覚でもいい、心の質感でもいい。
五感に触れてくる何かに気づいて ひろがりを感じられたら。

いつもここに還ってこれる そんな場所を自分の何処かにもちえるならば
なんどでも、「ここ」からはじめられるだろう。


そうだな、もちえるというよりは 「思い出す」かな。 命にかえる。


今ここで 命に還って、 また 生きていく。 きっと 深みを増しながら。






今日は おうちでゆっくり。

久々にいろいろメモをして、新しい本を何冊か注文して、これを書いたりできて よかったなぁ。
ご飯を食べてゆっくりしよう。おなかが減った。

 

 

 

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新 年

2016年 1月4日

あけましておめでとうございます

本年もよろしくおねがいいたします



心を静かに かつ 心をこめて


今ここで聞こえてくる音
今ここから見えるもの
今ここの 感覚


心の中で動き出すものにも 冷静に気づいて クリアに




今年も 健やかに実りの多い年でありますように

 

 

 

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